広島市に本社を置く中国新聞社は、中国地方5県を購読エリアとする中国新聞を発行する新聞社です。1892年創刊の紙面に加えて、現在ではニュースサイト「中国新聞デジタル」を中心に、ニュースアプリ「みみみ」や読者や地元向けのコミュニティアプリ「ポケちゅピ」、広島東洋カープの公式アプリ「カーチカチ!」などのデジタルコンテンツも展開しています。また、被爆地ヒロシマに拠点を置く新聞社として、原爆平和報道に特化したWebサイト「中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター」を運営し、日本語だけでなく、英語を中心に核兵器保有国の言語(フランス語、ロシア語、中国語) で核兵器廃絶や世界平和のニュースやメッセージを発信し続けています。
導入の目的
2023年5月20日付の中国新聞は「G7首脳原爆慰霊碑献花」の見出しの下で、前日の先進7カ国首脳会議 (G7広島サミット)の開幕を伝えました。ロシアによるウクライナ侵攻が不透明さを増す中で、初の被爆地でのG7サミット開催。社員の約3分の1が犠牲になった被爆の惨禍から立ち上がり、2022年に創刊130周年の節目を迎えた中国新聞社は、世界から注目が集まる広島サミット開催に合わせて原爆・平和報道のデジタル展開の強化を掲げました。
その柱として、ゼロから開発した「きのこ雲の下で何が起こったか」(以下、「きのこ雲の下で」)、「世界の核兵器数はどう変わってきたか」(「世界の核兵器数」)、そして
「復興あのとき: 焦土から立ち上がった人と街」(「復興あのとき」) のデジタルコンテンツ3部作を順次公開しました。併せて、G7各国首脳やパートナーなど関係者が訪れた世界遺産の島、宮島の観光スポットやおすすめの観光ルートを紹介するサイト「みやじマップ」も公開。同社では、今回手掛けた4つのプロジェクトが、災害報道や防災、データジャーナリズムなどで地図データを効果的に活用する次世代のジャーナリズムに向けた大きな第一歩となると期待しています。
「広島サミット開催を機とする4つのプロジェクトは、私たちにとって1つの挑戦でした。これまで長年取り組んできた取材と報道を通して私たちは膨大なアーカイブコンテンツを有していますが、読者の方々にすべてのコンテンツの存在を知ってもらい、読んでもらうのは困難です。けれど、テーマに沿って大きな時間や出来事の流れのハイライトを動的に表現したウェブサイトを『入り口』に、ユーザー自身の関心に沿って、より詳しく、事象を掘り下げた多様なアーカイブコンテンツへのアクセスを提供することに挑戦しました。この手法を "デジタル・ストーリーテリング" として展開したのです。例えば、被爆の惨禍から人と街が立ち上がり、苦難の中で現在の広島を築き直した歩みを振り返る『復興あのとき』は、プロ野球の広島東洋カープやお好み焼き、平和記念都市としての街づくりなどを取り上げた新聞紙面用の連載企画がベースです。ですが、街を俯瞰して捉えられる現在の衛星地図データを活用することで、地理的な位置関係を示しながら当時の取材写真や証言を提示し、爆心地を中心とした各地の復興の動きを新しい表現で伝えることができました」山本 洋子 氏 (中国新聞編集局報道センター社会担当デスク、記者)
導入の経緯
新聞紙面であれ、デジタル報道であれ、従来型のテキストと写真の組み合わせという記事スタイルには速報性や読みやすさに利点がある一方、表現力や訴求力の高いコンテンツ、ユーザーの関心や動作に合わせたインタラクティブな体験を提供できていないと課題を感じていました。また、力を入れている報道テーマについて、膨大で多岐にわたるアーカイブコンテンツに触れてもらう導線づくりも十分にできていませんでした。
例えば原爆と平和に関する記事では、過去の蓄積に基づいて個々の記事や調査報道が詳細で深く掘り下げられていればいるほど、一般の読者はその「背景」となる歴史や基礎知識がなければ、逆に理解や共感が難しくなってしまうことがあります。大きな時代の流れや全体像をわかりやすく、興味を引く形で表現すると同時に、新聞で追求してきた「いつ、どこで、何が起きたのか」という事実関係の厳密さと表現の正確性をも担保できる新しい手段を探していました。
「『復興あのとき』では、懸命の復旧で被爆3日後に市内を走った路面電車や爆心地にほど近い場所に建設された市民球団の球場などを紹介しています。"デジタル・ストーリーテリング"では読者が理解や共感を深めやすい、ストーリー性を持ったデジタル表現が鍵になりますが、その意味でそれぞれのエピソードの地理的な位置関係は重要な意味があります。テキストで伝えることは困難ですが、広域地図の中で位置関係を示すことで、『正確さ』を保ちながら、読者を置いてきぼりにしない新しい表現を試行できました」山本 氏
同様に、第1弾の「きのこ雲の下で」では、1945年8月6日の原爆投下直後に各所で撮影された「きのこ雲」の写真を起点に、同年10月までに取材・撮影された写真と証言で被爆の惨禍を振り返っています。ウェブ上では、被爆後間もない1945年8月11日に撮影された航空写真をタイル状にMapboxに配置した上で、各エピソードの撮影場所と爆心地の位置関係を示すなどしましたが、地図上の位置関係やズームなどについて何度も微調整を重ねて、正確性を追究しました。
「きのこ雲の下で」は3月末、「復興あのとき」は5月に順次公開。2023年2月のキックオフから計4プロジェクトのリリースまで開発に要した時間は3カ月余り。短期間での開発を可能にしたのはMapboxの高度なユーザビリティと同社アンバサダーの強力な技術支援でした。
ソリューション
中国新聞社にとって、将来的な報道コンテンツ、広告面それぞれの活用などを視野に入れたとき、地図表現の豊かさ、その活用のしやすさ、ローコード開発にしやすい仕様、そして開発リソースが限られていてもある程度のカスタマイズが可能な点がMapboxを選ぶメリットでした。さらに、メディア業界での活用例が多かったことも導入決定の大きな要因になりました。
「別の大手プロバイダーの地図サービスも候補に挙がりましたが、私たちが目指す報道のテーマや目的で活用するにはフルカスタマイズを伴う高度な技術が必要でした。当社の現状の技術リソース、持続可能なプロダクト開発を考えたとき、基本機能をローコードでカスタマイズできるMapboxは自然な選択肢でした。今回の開発は、契約社員のエンジニアが所属する中国新聞メディア開発局が担う形で社内プロジェクトを組成しました」山本 氏
開発作業は、Mapboxのアンバサダーの監修と密接な支援の下、開発リードを務めた契約エンジニアに加えて、メディア開発局の2名の社員が担当しました。しかし、開発にたずさわった中国新聞のエンジニア全員にとってMapboxでの開発作業は今回が初めてでした。
導入の効果
開発プロジェクトで重視されたのは、イベントを時系列で表現するシンプルな構成に加えて、ユーザーの操作に対する動的な表現でした。「きのこ雲の下で」と「復興あのとき」は、Web版とモバイル版の両方においてシンプルなスクロール操作のみで縦の時間軸に沿ってテキストと写真、そして地図データが連動するコンテンツを動的に表示するスタイルとデザインが採用され、"デジタル・ストーリーテリング" を介した情報のメタバース化 (新しい表現方法による既存コンテンツの新しい意味付け) が実現しました。
「Mapboxの柔軟なカスタマイズ性とMapboxアンバサダーの監修がなければ、わずか3カ月余りという短い開発期間でここまで技術的に複雑なデザインのサイトを稼働させることはできませんでした。今振り返れば、Mapboxの開発経験が皆無だった私たちは、キャッチボールを始めたばかりの選手がいきなり甲子園を目指したようなものでした。アンバサダーの親身な監修に加えて、Mapboxで整備されている技術ドキュメントも社内でのMapboxの知見の蓄積と開発スピードの向上に大いに役立ちました。文章を書くことを生業とする私たちですが、今回は正確なドキュメントの重要性を改めて認識しました」山本 氏
もう1つのプロジェクト「世界の核兵器数」では、上記2つのプロジェクトとは若干異なるアプローチを取りました。操作可能なUIはスライドバーとヘルプボタンのみというシンプルな構成。米国とロシア (旧ソビエト連邦) を始めとする核兵器保有国が増え、1945年時点では2発だった核兵器が冷戦の進行とともに大きく増えていく様子を世界地図上で視覚的に表現しています。核兵器の数を表す赤い円のサイズを制御することは難しくありませんでしたが、核兵器保有国の塗りつぶしに関しては国境に争いのあるケースもあり、細かい調整が必要でした。その点で、各国の公式見解に基づく国境を反映できるMapboxのworldview機能は高い効果を発揮しました。
「『世界の核兵器数』は、核問題に関する膨大な取り組みとわかりやすいコンテンツの不足というギャップに対する1つの回答です。読者の混乱を避けるため情報を極力絞り込み、シンプルさを追求した点で、1つのモデルケースになると思います」明知 隼二 氏 (中国新聞社メディア開発局)
将来の展望
5月19日開幕のG7広島サミットを目標に進めた開発からは、「みやじマップ」という大きな副産物も生まれました。G7首脳の訪問が予定されている宮島の特集企画に合わせて開発が始まったのは2023年3月。観光団体など外部パートナーとの連携交渉も含めて、1カ月余りの開発期間の後、Mapboxでの開発作業で蓄積されたノウハウとスキルを活用した多言語 (日、英、仏) 対応の観光サイトが誕生しました。このサイトの構成もシンプルです。ユーザーが右下のナビゲーションツールを選択すると、選択内容に応じて地図上にスポットやルートがグラフィカルに表示され、関連するテキストが画面上に表示されます。
「『みやじマップ』は (他のプロジェクトと異なり) 過去の歴史ではなく、現在の身近な宮島の情報マップを具体的に形にできたので、社内で私たちがMapboxで何をやろうとしているのか、そのバリエーションを説明する大きな力になりました。開発を担当したのはまだ経験の少ない社員でしたが、シンボルレイヤ(マーカーやアニメーション) などの基本的な機能を活用しながら、クラスター表示やフィーチャのフィルタ処理などの高度なMapbox機能も実装。報道領域での地図活用に加え、将来的なマネタイズの可能性も示すことができました」山本 氏
今回の開発経験を生かし、今後は、災害報道など幅広いテーマでMapboxを活用したインタラクティブな事例を展開することが目標であり、課題となります。地図データを有効に利用すれば、地理や地名になじみのない地域外のユーザー (読者) にも、適切な地理感を伴うコンテンツを提供することが可能になると今回のプロジェクトで確信を得ました。一方で、コンテンツの拡大を目指せば、リソース不足は引き続き大きな課題となります。
報道領域に限らず、自社主催のイベントなども含めて、地図ツールを活用したコンテンツ開発を水平展開しながら、並行してリソース育成を推進する必要があります。また、従来のデジタル報道コンテンツにとどまらない、インタラクティブで新しい表現の模索は、他の多くの地方紙新聞社にも共通する課題だと認識しています。中国新聞社としては今回の事例を有志の他社とも共有するなどして横の連携を深め、ローカルメディアとしての新しい価値創造やリソースの確保などについてさらに意見交換を深める予定です。
「『みやじマップ』のように地域情報を適切に編集して提供することができるデジタルマップは、地場の事業者の広告や店舗情報などもユーザーに資する『地域情報』としてきめ細かく併載でき、ビジネスとしての活用へ大きな布石になるはずです。また、今回の "デジタル・ストーリーテリング" の事例は、新聞社が提供するデジタルコンテンツの意味や意義について、新しい視点で考えるチャンスと捉えています。Mapboxは充実した基本機能、柔軟なカスタマイズ性を備えており、今回は監修アドバイザリーという形で強力なサポートも得られました。私たちのように開発経験が少なくても始めやすく、いわばキャッチボールレベルから一気に甲子園を目指すことが夢ではなくなります。中国新聞社としては、地域とコラボレーションして新しいコンテンツを創造するうえでの強力なパートナーとして、引き続きMapboxのアップデートに期待したいと思います」山本 氏